30年以上にわたる教員生活の中で出会った多く印象深い生徒たちの中でも最も個性的で多才であったK君のことをぜひ紹介してみたい。
彼が高校に入学してきて初めて会った時は彼からそんなに強烈な印象を受けなかったが、学年の中ではその存在感は知れ渡っていた。1学期の最後のHRの時間で各班が3カ月にわたって調べてきたイギリスについての研究内容を発表することになっていた。そんな場合の発表の仕方は各班の代表者が壇上に上がって、模造紙にまとめた内容をただ読んでいくものと相場は決まっていた。そのやり方をすると、やがて聞く側も次々なされるその単調な発表に飽き、私語も増え、全体が騒がしくなっていき、最後に先生が注意して終わりというのがお決まりのコースなのだが、Kが企画した展開はその弊害をうまくクリアーする意表をつくものだった。200人近くの生徒をいかに退屈させないかをただ念頭に、当時30%近くの視聴率があった久米宏のニュースーステーションをまねたものであった。つまり白陵会館のホールに集まった生徒の中に中継地何か所を設定して、壇上に座った久米ならぬK本人がその中継地にいる担当の生徒に特派員方式に現地報告を求め、それに軽妙洒脱なコメントを加えて聴衆に臨場感を味わせ、それによって少しでも発表内容に興味をひきつけるものであった。あっという間の60分だった。たかがHRではないかとお思い方も少なくないでしょうが、人は高校時代にその後の人生を予感させる萌芽が見られるものです。何と発想豊かな行動力の持ち主か!と本当にびっくりしたが、彼の本当の偉さは学年の仲間たちに全幅の信頼を得ていることだった。生徒は先生以上にお互いの日常を見ているだけに、相手の信頼を得るというのは並大抵のことではないのです。
やがて高2になって彼自身描いていた路線通りに、念願の生徒会長に選ばれると、それこそ水をえた魚のごとく持ち前の企画力や行動力をフルに発揮し、顧問としてつきあっていた私は毎日のように提出される彼の手書きの企画書に対する対応に追われた。彼は中学時代から自分が生徒会長になったら実行しよう細案まで練っていた企画が20以上あったことを後で彼の口から聞いたが、内心正直参ったと両手を挙げた。それもかつて白陵がやったことがないことばかりだったので上の先生との協議に放課後の時間のほとんど取られたことを覚えている。私にも勉強になることが少なくなかった。彼の高校時代の集大成はやはり文化祭だった。それまでの白陵の文化祭と言えば、東大合格者が30名を越す学校にしては何ともみすぼらしくしょぼいものだった。この文化祭をより充実させることが学校のレベルアアップにつながり、学校を地域社会に開く絶好の機会だと信じ、できるだけ多くの生徒が参加できる、にぎやかなものにしようという気持を私も含めてすべての担当者は共有し合っていた。つい誤解されやすい白陵だけに、私たちの元気を世間の人たちにアピールしたいという思いだった。(彼が残した文化祭での企画は10年後今も多く残っている。)
文化祭のほかにも彼は立派な足跡を残していったが、最後にそのうちいくつかを列挙してみよう。阪神淡路大震災の年から始まった県の弁論大会では自らのアトピーに苦しんだ経験を述べ金賞をとった。発表内容もさることながら、発表の際の表現力がぬきんでていたことが審査員の心に響いたたような気がした。
白陵と岡山白陵とは多くの人たちが思っているほど、交流が熱心に行われているわけではありません。彼はそこで白陵両校の交流を深める第一歩として生徒会役員同士の意見交換会を企画し、岡山白陵まで出
かけて行った。そこで示した彼の発信力には岡白の先生方もびっくりされていた。またある時は地元の人たちにも学校をもっと知ってもらおうと、老人会にお願いして茶話会に加わり学校への要望を吸い上げようとした。最後の話によく表れているのだが、彼は目立ちたいからいろんな行動に走るのでないことが彼
の素晴らしさで、人に対するやさしさこそが彼の真骨頂であると思う、
こうした輝いた高校3年間に対して学校は前例のない特別功労賞を送った。その盾には「校風の活性化に寄与した」とか書かれているが、まさしく校風活性化の功労者である。
ちなみに彼は今電通でテレビコマーシャルを創っているが、今年の同窓会で彼はこう言った。「先生、今の仕事なんて、高校時代にやっていたことと同じですよ。実社会でやることの練習をさせもらった白陵には本当に感謝しています。」と。こんな個性的な生徒な生徒を輩出するようになった白陵も立派だと思う。